昔話は今回で最後になります。
私が高校生の時代、子どもながらに"自分の家は特別お金持ちではなく、どちらかと言えば慎ましい生活をしている家だ"ということは分かっていました。それでも、以前から親が、「大学に行きなさい。」と言ってくれていたので、できれば学費なども安い国公立の大学を目指して勉強していました。ただ、桜井高校の中でも特別成績が良いわけではなかったので、志望できる大学も少なく、それに加えて父が他界という状況で、家族や親戚は色々と心配していたことを後からになって聞きました。
すべり止めの私立大学もいくつか受験しましたが、ほぼ全滅して、最後の望みで祈るように受験したのが富山県立大学でした。
結果、見事に合格し、小杉町(射水市)の富山県立大学に入学することができました(ノД`)・゜・。母と合格を喜んだことを今でも覚えています。入学させていただき本当にありがとうございました。
父が他界した後、私が大学にのほほんと行かせてもらっている間、紙屋ガラスはどうなっていたかというと、母が一人で看板を下ろさずにお店を営んでいました。女手一つでガラスの交換やサッシの組み立て、網戸張替等、色々と頑張っていたと聞いています。もちろん元々ずっと父と一緒にガラス屋をしていたわけではないので、ガラス工事の知識はほとんどなく、ガラス周りのコーキングをする際に、マスキングテープを貼ってから充填してヘラで仕上げる工程すら知らずに、当初は仕事を請けていたそうです。
当時のYKKAPさんの営業マンの方がすごく親切で、何もわからない母のために一緒に現場に同行し、ノウハウを教えてくれたり、腕が良くって優しい職人さんを紹介してくれたりと、ものすごーくお世話になったと聞いています。
しかし、もともと父の代からお付き合いしていた大工さんは、ほとんど他のサッシ屋さんに仕事を持っていってしまって、売り上げや仕事量は父がやっていたころの半分以下になっていったと聞き、当たり前のことなんでしょうが、「厳しい世の中だなあ。」と感じました。
そんな中でも、母が必死に頑張っていたことは、小学校や保育園などのガラス修繕をできるだけ早い対応でしてきたということです。 「なんで?」とたずねると、「もちろん子どもたちが学ぶ場のガラスはできるだけ早く直さんなんし、なによりも学校の先生方に紙屋ガラスを覚えてもらって、あんたが帰ってきた時に仕事もらえるようにしとかんなんから!」と答える母。。。
大学デビューして緑髪になり、バイクに乗るか、サークルでドラムを叩き続け、ろくに勉強もせずに落第しそうになり、奨学金が止められそうになったりしていた自分の帰りを待っていたんですか!?
「YKKAPさんとの販売店契約も一度やめてしまったらまた再開するのは難しいから、販売店の看板を下ろさないように細々とでも店を続けているんやよ、あんたが帰ってきた時のために。」

………
なんでそこまでして?若かった頃の私には理解できませんでした。
でも今ならわかります。
ガラスが割れて困っているお客様に迅速な対応で交換できた時、お客様はすごく喜んでくれて、「助かった、ありがとう!」って言っていただいて、その対価としてお金をいただくことができます。
学校に行ったら、「お母さん元気?依頼したらお母さんがすぐに来て、ガラスを一生懸命直してくれて助かっとったん!毎年カラーの花を持ってきてくれて嬉しかった。あんた跡継いでくれたんけ?よかったわ~♪」っておっしゃってくれる先生もおられました。
サッシの交換、サンルーム、風除室の取付、窓の断熱工事等、紙屋ガラスで出来る仕事はどれもお客様の暮らしが豊かになって、ありがとうをいただける最高の仕事だということがわかりました。きっと母はそういうことがわかっていて、私にもそれを体感させてやりたかったんだと思います。
まだまだ道半ばですが、今日に至るまで、紙屋ガラス建硝はたくさんの方々に支えられてきました。
ご先祖様から受け継いだバトンをしっかりと握って、また未来へ受け継いでいきたいと思います。
そして今、素晴らしいスタッフと共に会社を経営させていただいていることに対して、深く感謝し、これからも先代やお客様や仲間のために、精進していく所存であります。
皆様どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。
ありがとうございます。
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- 2022/09/30(金) 17:57:09|
- 社長日記
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